僕は会話を重視しない。
この考え方に偏りがある事は把握しているし、少数派であることも認知している。
§1
大多数の人間は会話を行う。日本でもそうだし海外でもそうだ。
もちろん日本人より海外の方がコミュニケーションは活発だ。
外国だと道行く知らん人にも「チャオ」とか言ったりするらしいとも聞く。
しかしこれは防犯の側面を兼ねており、かなりの意訳ではあるが「お前を見ているぞ(認識しているぞ)」という共助的な意味合いもあるらしい。
「最近どう?」「元気?」「何かあった?」というような定型句もあるほどだ。
日本においても「ご近所付き合い」「世間体」という体裁があるため、顔を知っている隣人には挨拶を行うなどする。
まぁ挨拶だけで終わる場合がほとんどだが、仲が良ければ話し込むこともあるだろう。たまに女性が1時間以上道端で話し込んでいるのを見かける。あれは何なんだ。僕が目的地に行く途中に見かけ、目的地で用を済ませ、帰路についたところまだ話し込んでいた。喫茶店へ行け。
話が逸れたが、会話は人間のコミュニケーション手段として重要なものである。
§2
例えば二人っきりになったとき、何かしらの会話をしないと場の空気が気まずく感じてしまう人は多いと聞く。
僕は差し障りのない無味な会話を展開されるくらいなら黙っていて欲しいのだが、だいたい話を振ってくれる。まぁ僕の方からの話題提供が無いので、話を振らざるを得ないと感じるのだろう。別に双方無言で良いじゃない、と思うのだけど。
これは親しい間柄なら問題無いし会話もそこそこに楽しめるのだが、絶妙な間柄――例えばビジネスパートナーくらいだと本当に微妙だ。相手のプライベートには微塵も興味が無いので、こちらの話すプライベートにもきっと興味が無いだろうと思ってしまう。「最近、○○に行ったんですけどー」とかそういうの。
でも、僕もいい大人なので、そういった話を振られたらちゃんと「へぇー!そうなんですね!」と相槌を打てるくらいの社会性を持ち合わせることには何とか成功している。
だからきっと相手も僕が特に味気のない会話を繰り出したとしても相応の相槌は打ってくれることであろう。
それでも僕から話すことは稀であり、僕は全然無言で居ることに慣れている。
それで例えコミュ障だのノリの悪いヤツだの思われようが歯牙にもかけない。他人からの評価なんて全くもってどうでも良い。
§3
人は往々にして評価を気にしすぎだとも思う。
他人からの評価や言動はコントロールできない。
例えば自分が肥満体だとしよう。「デブ」って言われたくないとする。「デブって言わないで!」と言う事は出来るが、「デブって思わないで!」と言ってもどうしようもない。それどころか、他人が第三者に自分の事を紹介する際に、真っ先に形容する言葉として出現する可能性がある。こういった見えない所での評や印象はコントロールすることが出来ない。
コントロールしたいなら自分を変えるしかない。それが出来ないならば受け入れるしかない。
これが現実であり、目を背けてもどうしようもない。だって他人の思考の部分なので。
そして、その他人の思考から下される評価、印象、そういったものを気にしすぎてもどうしようもない。そう思われたから何だというのだ。嫌なら自分を変えればいい。どうでもいいならとやかく言うのは無駄でしかない。
§4
会話の中には共感の目的を含んでいるのか、と最近思う。
そりゃそうなのだが、社会性のある動物である人間は、高度な会話というコミュニケーション手段により情報を交換し、感情を共有する。
ある時は「そうなのか、大変だったね」と労ったり、ある時は「それは許せない!」と一緒に憤ったり。といった具合だが、最近の気付きとして僕はこれが薄い。
僕の中での会話はあくまで情報伝達。やりとりのための言語ツールであり、感情を揺さぶるためではない。手段の一つであり、会話そのものは目的ではない。
なるほど、このスタート地点がそもそも食い違っていたのか。というのが最近の気付きである。
男性脳らしさがあるといえばそうだが、それにしても極端な気もする。
「女性脳は共感を重視し~」みたいな文献はよく見かけるので、きっとそうなのだろう。ジェンダーがどうのと言われてもこれは性差なので仕方が無い。
そもそも僕は自分の事を話すのが得意ではないし、話したくないというのもあるのかもしれない。
無駄に分かったような事を言われたくも無いし、浅い会話を広げられるのも好きじゃない。かといって、いわゆる「傾聴の姿勢」だなと気付いてしまうのも興が冷めてしまう。
なんだこれ。まったく会話に向いていない。人間社会に向いていないのかもしれない。