「なるほど、最終的には自分のお店を持って大好きなフレンチを作りたい、と」
それは前に調理師志望の知り合いと話した時の事だった。
彼は僕より若く、当時は20歳くらいだったと思う。
「もちろん、分かってたと思うけども、僕は反対する。心の底では応援してあげたい。でも、無責任に頑張れとも言えない。」
と僕は答えた。確かこんな感じの事を言った。
誰しも夢が定まった瞬間は浮き足立ち、鼻息も荒くなるものだ。
物事が万事好調に進むように感じ、何も障害が無いように思えるかもしれない。
水を差すようだが、実際そういう思想はただただ眼前に広がっている現実を美化しているだけに過ぎない。簡単に言えば、ちょっとした落とし穴に気付かなくなってしまったり、もしも落とし穴へとハマってしまったとしてもそれを大事とせずに軽視してしまうようなフシが出てくる。
「料理人になるって言ったって、下積みは大変で辛いものだよ。」
「分かってる。でもきっと乗り越えられる。」
そうだろう。その気合いはある意味で最低条件だ。もちろん僕なんかより当の本人の方が下積みの厳しさは弁えているだろう。
とはいえ、僕もまったく知らないわけでは無い。
僕の知り合いに板前がいる。専門は和食・日本食で、弟子も多い。
業界の事まではよく分かんないが、割と顔が利く方のようなので、著名なのかもしれない。
よって、内部の上下関係や厳しさ、そしてその仕事の地味さと丁寧さ等に触れてきた。
僕ですら厳しく見えたその現場は、きっと当人にとってかなり過酷な物となる。
それでもその先にある夢の事を考えれば、そんないばらの道もきっと耐える事が出来るのだろう。
そもそも目的は何なのか
「料理人になって何がしたいの?」
「独創的なフレンチを作りたい」
よくある答えだ。そして大事で、ただしちょっとリスキーでもある答え。
「よし、じゃあ晴れて長く厳しい下積み時代を越えて、独立して自分のお店を出せたとしよう」
「うん」
「でも常に独創的なフレンチを作れるわけでは無いんだ。例えばもしもお店が評判になったとして、でも自分的にはメインではないクリームコロッケが有名になったとしよう。例えもうクリームコロッケが作りたくなかったとしても、注文が入れば作らなければならないよ。」
そう。これが仕事なのだ。趣味との決定的な差とも言える。
よく「嫌な事もやるのが仕事」という言い方もあるが、あれも的を射ている。
一日、ろくに創作フレンチも作れず、定型のメニューを捌き、閉店した店内で鍋をこすり売上を計算する…。これが一般的な料理を「仕事」としている料理人のよくある一日となる。
むしろ客足があるだけ良い方で、客足すらなければ創作フレンチを作れば作るほど赤字である。もうこうなってくると仕事なのか大がかりな趣味なのか分からない。
ここで少し前に戻って、目的を見直したい。
「独創的なフレンチを作る」ことが目的だと、きっとすぐに嫌気がさしてしまう事だろう。思い通りに行くなんてほんの一握りだけの話で――でも何故か大体の人がそのほんの一握りになれるだろうという根拠の無い自信だけは持っている。
もし軌道に乗ったとしてもクリームコロッケを作る事は嫌かもしれない。独創的じゃないからね。当初の目的は果たせていないことになる。
例えば目標が「自分の料理で人を幸せにしたい」ならばどうだろう。
これならば料理が創作フレンチであれ、クリームコロッケであれ、関係無いのだ。
なんであれ自分の料理を食べて笑顔になってくれる人が居る。それがまたモチベーションとなり、活力となる。お店としての質も上がり、良い上昇のらせんとなる。
つまり、やりたいことをそのまま目的に変換してしまうと、それを仕事にした時にモチベーションを保つことが難しくなってしまうのである。
「仕事」には本質以外の雑務が含まれる
ちょっと既に触れているが、創作フレンチを作りたいからといってそれだけをずっとし続ける事が出来るわけでは無い。
もちろん料理の腕を磨いたりすることも大事だが、例えば包丁を研いだり備品を購入したりもしないといけない。さらに言えば、料理の本質から離れたところの経理や掃除、人員確保や宣伝なんかも考えなきゃいけない。
「料理を作りたい」だけのモチベーションだとここまで手は回らない。公式サイトやその他SNSの活用などの重要性は理解出来たとしても、優先順位を低くしてしまいがちなのである。
しかし、もちろん宣伝しなければお店の存在なんて知られるわけもない。たまたまグルメな人が通りかかってお店に入って、その人が最高のインフルエンサーでたちまち評判になり――なんて夢物語が過ぎる。ましてやそういうインフルエンサーですら、一度お店の名前を検索ボックスに入れるなりして下調べをする人が大半である。いきなりお店に単身突撃して勝手に宣伝してくれる人が来る可能性は限りなくゼロに近い。
ともあれ、そういう雑務が苦手ならば、やってもらえる人を探さねばならない。
それにしても、人材探しという雑務はこなさねばならない。結局雑務からは完全に逃れる事は出来ない。
そういう雑務を含んでこそ、仕事となりうるのだと思う。
そのような雑務は「やりたいこと」とは異なる作業となる。
つまり、もしも「やりたいこと」を目的としてしまうと、そこと直接結びつかないので「無駄な動作」だと思ってしまう可能性が高くなる。そうなるとモチベーションが保ちづらく、自分で自分を納得させる術が少なくなってしまう。
夢に囚われて、足元を掬われないように
「どうやって利益を上げるのか」「具体的にどこからお客さんを取り込むのか」「同じ地区に競合はあるか」「他には無い武器はあるか」等々。序盤にも様々なチェックすべき項目はある。
それを「なんとかなるっしょ」で押し切ってはいけない。特に夢に向かって勢いがある時期はある種盲目的になりがちである。
一歩下がって、もしくは頭上から俯瞰するような、冷静なジャッジが求められる。
上記のようなものを踏まえて、あらかじめ事業計画を立てなければならない。
乱暴に言ってしまえば今挙げたような項目にサッと答えられないようではお遊びの域は出ない。
きちんと、今現在どこに立っていて、どこへ向かいたくて、どういう道を辿っていくのかを明確にしなければいけない。
地味な事、地道な事は強い
あとは、すぐに効果が出過ぎるものに頼ってはいけない。
経験上の話だが、勢いよく成り上がると、その後しぼんでいく速度も速い傾向にある。
土台がしっかりと築けていないうちに上に積み上げてしまうからである。もちろん土台が脆ければ上に積み上げた物たちもろとも崩れ去ってしまう。
そうならないためには土台を強くすれば良い。簡単な事である。
そして、理屈では分かっていても、土台を強くするというのは地味で地道な作業となる。
和食なら例えば基本の出汁の取り方。雑に行っていないか、常に丁寧かどうか。とかね。
土台という面でプロモーションを考えるならば、例えば地元の口コミから固めていく、とか。
逆に土台を作らないうちに大きなメディアに大金を払って露出を高めれば、回収できるだけの客足になるかもしれない。だが、もしもボロが出れば即刻終了である。
どこかのお店が絆創膏がスープだかサラダだかに入っていたとSNSで炎上してしまったのだが、その後半年くらいで消えてしまっている。結果論だけども、しっかりと教育やリスク管理に時間を充てていれば防げたのかもしれない。地味だし、すぐに効果は発揮しないが、土台は大事である。
あと、見掛け倒しはすぐにメッキが剥げる。
それでも夢を追うのは美しい
夢を追い掛けるのは誰でもに出来る事ではない。
それは様々な制限――金銭的、時間的、身体的、精神的、家庭的…とまぁ色々と制約があったりするので、ある意味では羨望の的ではある。
よって、輝いて見えたりもするものである。それはテレビで芸能人を見たときだったりコンサートでアイドルを見たときに感じるものにも似ていると思う。
そう、夢を追い掛ける姿は美しいと思う。
ただし、基本的な努力を怠ったり能力や自分自身を磨かなかったりする人はその中に含まれない。
ただ単に「●●したい」とか「●●になりたい」とか思うだけなら誰にでも出来るでしょう。実際にいばらの道をものともせずに突き進み、地味な仕事や作業にも耐えるから、輝くんでしょう。
ちなみにその彼は、雇われの身ではあるが店長になったと聞いた。
厳しい冬の寒さに耐えて春に咲く花は、総じて美しい。