ねこらぼ( 'ω')

名古屋でこそこそと活動っぽいことをしている橋本ねこのブログ( 'ω')

正義を盾にした"批判"という行動

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価値観は人それぞれだ。

健康第一な人もいるし、健康なんてどうでもよくて自分の好きな事だけをしていたい人だっているだろう。

 

そして、それはきっとどちらも正しい。

立場によって違うし、そもそもどちらが正解かなんて決める必要が無い

 

そして、ややもすればどちらも分かり合えない。

健康第一な人がいかに健康の大切さを説いたとしても、健康が重要では無い人にとっては無用な話だ。

 

かと言って、分かり合えなければ共存できないわけではない。

分かり合わずとも共存できる。どちらの意見だって尊重すべき貴重な立場であり、それぞれがそれぞれの指針であり、誰かから指図されたり与えられたりするものではなく、自分自身の"方位磁針"なのである。

 

 

 

 

意見を違った物たちはそれぞれの団体を作った。

政治団体、宗教団体、自治体、国家――。これらはすべて考え方を異とする。

しかし、どれも一つしか存在しえない世界ではない。共存する事が出来る。

時に分かり合い、時に折れ、時に許し、時に見逃し、時に話し合いながら。

 

そして、時にぶつかった。

この衝突の多くは、歴史上では戦争という名で呼ばれる。宗教戦争も世界大戦も、互いに分かり合うことが出来なかった結果だ。

Win-Winという言葉を拝借するならば、戦争はLose-Loseである。互いに引きずり込み合い、様々な物を失い続ける。勝利したとしてもそれは本当の意味での勝利ではない。

 

ぶつかり合う事は真の意味での解決にはならない。

それを踏まえた上での平和であり、現在の世界はある程度上手い事収まってはいる。日本は特にね。

 

 

 

さて、なぜぶつかり合うのか。

答えは簡単である。どちらも正しいと思っているからだ。

「健康だったら何でも出来る!すべての物の土台は健康である!」

「そんなのどうでもいい。今、したいことをして、何一つ我慢せずに生きる」

「それは間違っている!健康こそが正しい!」

「健康になるために何かを我慢するのは正しくない」

と揉めたとする。まぁ平行線で分かり合えない話し合いなんだけど。

 

なぜ平行線かというと、価値観が違うから。

もっと言うならば、論点が合っているようでズレているから。

 

健康だったら何でもできるから健康を勧めたい人と、我慢をしたくない自由に生きていたい人。

だって、前者だって我慢が大好きなわけじゃないし、後者だって不健康を好んでいるわけじゃないじゃない。

だからそもそも互いの主張している物のベクトルが違っているわけ。「健康化不健康か」と「自由か我慢か」という、広く捉えれば同じような方向性なのに近くで見ると全く違う主題について話し合っているのだ。

 

これに関しては、互いの言いたい事や価値観を互いの立場や背景・環境も踏まえてしっかりと見極めて洗っていくしかない。

いわゆる「相手の立場に立つ」ってやつだ。

 

 

 

 

 

価値観とは自分の行動の指針となる"方位磁石"だ、という話をこのブログの序盤で出した。

それは自分を導いてくれる物となり、ある時は自分という存在や自尊心が揺らいだときに支えてくれることもある。いつしかそれはあたかも「正義」みたいな顔をしだす。

 

さて、実際のところ、確かにそれは正義だ。

しかし制限がある。その正義は自分にのみ有効だ。

相手も同じ価値観――つまり同じ思想や言動を正義と感じるかどうかは分からない。

ポイントはここである。

 

 

 

 

本題に入ろう。

最近話題の自粛警察について、だ。

自粛警察に関しては様々な考察がある。そして、社会問題になりつつある。

 

簡単に言えば、自粛をしていない飲食店等のお店に自粛を促したり、県外ナンバーの車に嫌がらせをする人たちのことを指す。

自粛"警察"とは言えど、何の権限も許諾も権利も無い一般市民である。

その内容は貼り紙、石を投げる、傷をつける、ガラスを割る――等だ。平たく言えば、どれも器物損壊を始めとする犯罪もしくは条例に触れる行為である。

 

さて、僕としてはそんな自粛警察たちに対して「犯罪だからダメだよ」という呼び掛けは効果が薄いと考える。

なぜなら自粛警察にとって重要な事は「犯罪かどうか」では無いからだ。

 

 

 

彼らは自分の行いを正しいと思っている。

そして、総じて「"悪"に対しては過度な行動(と本人はそこまで思っていない)をしても構わない」とすら思っていると考える。

ニュース等でやっている通り、行政は「各業態への休業」や「県をまたぐ移動制限」は"要請"までしか出来ない。命令が出来ないのである。

だったら、というわけで一部の人が私刑に走るのである。自発的に取り締まり出すのだ。取り締まってくれない法令や条例の代わりに。

そこには悪意などさらさら無く、何なら善意。その地域の平和を守っているとすら考えているだろう。ここが恐ろしいポイントであり、人によってはまったく理解が出来ない所以だろう。

 

なお、この記事で僕は自粛警察を擁護する気は一切無い。

村八分のような閉鎖的で陰湿な雰囲気を感じるし、おおよそ先進国家の民の行いとは思えないほど浅く考えの及ばない恥ずべき行動だと思っている。

 

 

 

 

 

先ほど、「地域の平和を守っている」という話も出したが、それと同時にもう一つの方向性もある。

「自分の平和も守っている」のである。

 

つまり、自分に危害が及ばない様にするための行動である。

自分の中の平安、平穏を守るために、半ば本能的に攻撃をするのである。

この思想によるものだという事は、こっそりと人目を忍んで事に及ぶ様子からも伺い知れる。最終的な目的が「自分に危害が及ばないため」だからだ。

 

昨今の非常時に於いては精神的にナーバスになって心が不安定になっている人も多いと思う。それ故に、自分の心を掻き乱す存在を排除したくなってしまうのである。

 

 

――というメカニズムは理解してもらえると思う。

自分の精神や心を蝕む存在はなるべく見ないようにしたいだろう。それは誰だってそうだ。

イヤな上司、学生時代の嫌いだった同級生、苦手なホラー映画をわざわざ自ら取り込みたがる人は居ないだろう。本能的に何らかの手段で距離を置くものだと思う。

例えば、忘れたり、気分転換をしたり、遠ざけたり、遠ざかったり。逆に対象と和解したり慣れていくのも一つの手段ではある。

さて、その手段の中には「対象を攻撃する」という解決方法もあるだろう。…だんだん繋がってきたでしょ?

 

 

 

 

その「対象を攻撃する」行動こそが、自粛警察の行動なのだ。

彼らの目的は攻撃による排除だ。どちらかと言えば後者が多いとは思う。

排除――つまり、相手が「嫌だな…」と思ってお店を閉めたり県外へ出ていってくれるような程度の嫌がらせを行うというわけだ。

 

ただし。これに対して抵抗をすれば、自粛警察の行動はエスカレートするだけだ。

抵抗をしていることが分かれば自粛警察の心は更に掻き乱されるだろう。そうなれば、もっと平安を求めるための行動に移る。

 

 

ならばどうすればいいかと言えば、今のところ一番有効なのは本当の警察に相談する事だ。基本的に先に手を出した方が悪い。ざまぁ。

 

もしくは先ほど挙げた「嫌な物を遠ざけるための手段の例」に戻って、攻撃以外の手段を考えてみる。気分転換…忘れる…距離を保つ…。

しかし、どれも自粛警察もしくは自粛警察予備軍の方々一人ひとりの心がけ次第となるものが多い。もう家でネトフリ見とけよ。

 

あと、正論をかましても効果は薄い。例えば貼り紙を飲食店にしたとして、「じゃああっちの店は?」みたいな話をしたりとか。「お前が自粛しろよ」とかね。そういうのはあんまり意味が無かったり、逆上させたりもしちゃってよくない。

 

となると、やっぱり本物の警察が良いと思う。

「自粛していないモノを勝手に私的に取り締まる自粛警察を、今度は本物の警察が取り締まる」なんて。落語みたいだね。

分かり合える日は、まだまだ先になりそう。