ねこらぼ( 'ω')

名古屋でこそこそと活動っぽいことをしている橋本ねこのブログ( 'ω')

ボトムラインの重圧

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日曜日にはEnder Silenceのライブがありまして。

個人的にもひっさびさのライブ。9月はライブが無かったしね。

 

場所は今池ボトムライン。ボトムラインは30周年だそうで。

創立は80年代後半という事になる。ゆえにまぁ僕よりも全然先輩な場所ではあるものの、なんかもっとオールドな時代…それこそ60年代とかからあるのかと思ってたので少し意外だった。

E.L.L.も同じイメージだったけど、こちらは創立が1977年。ボトムラインよりも古くからある事になる。

 

しかしその捉えようによっては短く感じるかもしれない30年の中で、誰もが知ってるようなアーティストや海外からのアーティスト等の名立たる面々が歴史を紡いでいったステージである事は間違いない事実。

ゆえにボトムラインのステージというのはバンドマンにとって憧れの場所でもある。

 

 

 

 

僕はボトムラインのステージに立つのはこれで2回目。

でも、まぁぶっちゃけて言ってしまうと今回のイベントのようなオーディションやなんかそういう系の物で大きな舞台に立つのはあまり好きじゃなくて。

そういうイベントでステージに立つと、自分の実力でそこに立っている感が薄れてしまうような感覚を覚える事が多い。不相応、不釣り合いに感じてしまうんだよね。

 

オーディションの類いで大きい会場――すなわち名古屋で言えばZeppだったりクアトロだったりReNYだったりを使ったりする事も多いけども、こういうオーディションで憧れの舞台に立つと、「あれ…なんだ、こんな感じか」と思ってしまったりもする。

実際、クアトロで投票イベントに出たときとツーマンで会場を埋めたときの僕の感情は全く違うものだった。

 

実際、総動員的にもイベントの全体的な質としても、もうちょっと小さめの会場の方が臨場感やライブらしさは出たんじゃないかなとすら思う時だってある。決して会場が悪いわけでは無いんだけど、僕はそう思った、という話。

やっぱりその会場、舞台につられて出演なさる方もいるのかもしれない。それはそれでアリなんだけどね。どうも僕はその辺は古い考えというか保守派だったりもするので、それで「◎◎に出演経験アリ!」みたいな書き方をするのは卑怯とまではいかないにしてもなんかちょっと違うなと感じたりもする。

 

 

 

 

とても個人的な話に帰結しようと思う。

僕はその憧れの会場に対して「ふーん、こんくらいね」って思いたくない。

エネルギーのぶつかり合い、みたいなライブがしたい。会場がただ大きいだけじゃエネルギーはあっちこっちへ分散してしまう。人が必要だなと感じる。

対話もしたい。感情と感情の対話。目を見たい。一人ひとりの顔も見たい。

そうなってくると、まだまだその準備が出来ていないのかもなと思う事もある。大きな会場でそれをこなすには、段階を踏む必要がある。

  

 

さて、先述の通り、ボトムラインでは2回目のライブ。

実は1回目のライブも今回のようなオーディションというか大会のようなものだった。

ゆえに、あの大きすぎるステージに対しての感動があまり無かった。

そういう大会は往々にして通常のライブよりも与えられた時間も少ない。なので、進行がどうしても流れ作業的になる。ライブを行う側としては流れ作業的にはもちろんしていないのだけど、イベントの進み方がベルトコンベアー式というか。

準備や片付け等の時間も限られる。会場の大きさを存分に味わったりする余裕も無いのである。

 

そこの差は、「イベントの内容」「自分たちのステージに与えられた時間」「お客さんの人数」などによるのだと思う。

別にイベントを否定したいわけじゃないんだけど、ボトムラインである必要はあったのかは今なお「?」ではある。

 

 

 

 

結果として、僕はボトムラインのステージというモノに対して100%向き合うことが叶っていない。

 

ボトムラインはこんな手軽に誰でも登れるステージでは無いと思っている。

憧れて、渇望して、立つだけで良いと願えど、無情にも叶わない人の方が大多数を占める…そういう場所なはず。

出演者の方がお客さんより多いボトムラインなんて、とすら思う。繰り返しになるが、僕にはまだまだ早い場所――身分不相応だな、と感じた。

 

しっかり階段を昇って、出直したい。