最近、韓国料理を色々と作っている。
これらの模様は別のブログにて掲載している。
作り過ぎじゃないか、そう思うのも分かる。
自分でもそう思っている。
物事には必ず理由や動機、つまり"きっかけ"や力点が存在する。
そしてその理由は非常にシンプルである。
コチュジャンって使い切れなくない?
自宅で焼肉を嗜んだ際にコチュジャンを買ってみた。思えばこれが浅はかだった。
僕は肉料理に目が無いため、よく自宅で肉を焼く。それはステーキだったり生姜焼きだったりまぁ様々だが、焼肉も好きだ。
以前、焼肉のタレを買ったときに僕は新たな学びを得た。
「焼肉のタレって使い切れなくない?」
あると便利。各メーカー研究に研究を重ねた至高のタレは非常においしい。
むしろ焼肉なんて肉ってよりタレを食べているようなものだ。焼肉はタレがおいしい。タレのマズい焼肉なんて焼肉じゃない。
小さい頃、外食で焼肉に行ったときは注文したお肉が来るのが待ちきれず、皿に出したタレを箸の先端に付けてはペロッと舐めていて親に「行儀が悪い」と指摘を受けたものだった。
そう、我々は焼肉屋でタレを食べていると言っても過言ではない。
そんな焼肉のタレだが、焼肉以外での使い道が無い。
せいぜい野菜炒めくらいだ。メーカーもそれは自覚しており、パッケージの裏の成分表示の近くにアレンジレシピが書いてあったりする。
これは自論だが、パッケージにメイン以外の活用法が書いてある調味料はそもそも使い切るのが難しいということだ。容易く使い切れるのであればそんな記載をわざわざする必要が無いからだ。
例の如く使い切る事の出来なかった焼肉のタレは冷蔵庫の中で今か今かと健気に出番を待ち続ける。だが、彼らの渇望する「出番」が次に訪れることはもう無いのだ。
それらの経験を踏まえ、僕は焼肉のタレを買わなくなった。
ごくごく少量サイズで購入することは無くもないが、基本的に手作りする。手間はかかるが、使い切れないよりはマシだ。これ以上悲しみを連鎖させるわけにはいかない。
といった具合に焼肉のタレは買わなくなったが、ある日、味変がしたくなった。
そうだ、焼肉なんだからコチュジャンが合うに決まっている、買ってみるか。と新たにコチュジャンが仲間入り。目出度く焼肉の席では大活躍で幕を閉じるのだった。
そしてその幕が再び上がる事は無かった。
同じ過ちを繰り返す
往々にして、人とは愚かな生き物である。
同じ過ちを繰り返し、同様な歴史を繰り返す。争いは絶えないが、争いからは何も生むことが出来ず、同じことで苦しみ、同じことで悲しみ、そしてまた同じことで歓びをも見出す生き物と言える。
そんな人間が、今度はコチュジャンを余らそうとしている。何たる愚鈍さ。
焼肉のタレで知見を得たつもりになり驕り高ぶった人間の成れの果てがこの様である。
「まだ諦めてはダメよ――!」
捨てる神あれば拾う神あり。地獄で仏。
そんな声に導かれるように耳を澄ますと、続けて声が聞こえてきた。
「韓国料理を――韓国料理を作るのよ――!」
そうか、コチュジャンは韓国料理、韓国料理を色々と作ればこのコチュジャンだって使い切れるのではないか。
なるほど、思い付きそうで思いつかなかった妙案。これで毎回無理やり野菜炒めをコチュジャン味にしなくて済む。
見たか、これが毎回無理やり野菜炒めをオイスターソース味にしている奴との差よ!
韓国料理を色々と作る
そして韓国料理を色々と作ることにした。
これが一連の韓国料理シリーズとなる。
ここまでに自家製キムチから始まり、プデチゲ、ナムル、そしてビビンバと4種の料理を作ってきた。
コチュジャンも良い感じで減りつつある。韓国料理、素晴らしい!
しかし冷静に思い返すと、実はキムチやナムルにはコチュジャンは使っていない。
プデチゲで30g、ビビンバでもせいぜい大さじ1程度しか使っていない。あれ…?
道のりはまだ長い…?
まだ余っているコチュジャン。期限は未開封で2024年12月まで。
まぁまだ半年くらいは使えるだろうし、残りはもう1/4程度。あとは焼肉か何かで使ったらちょうど良いかも。
そうだ、たまには焼肉で市販のタレを買って使ってみるのも良いかもしれない。最近手作りばかりだったし。
to be continued...