ねこらぼ( 'ω')

名古屋でこそこそと活動っぽいことをしている橋本ねこのブログ( 'ω')

街を走る霊柩車

車を運転していると、信号も何もないのに急に前の車が停まった。

左の車線も、右の車線も停まった。

はて、何だろうと思ったら数台前の方で誘導員が数人で車を停めているようだ。

工事現場からトラックか何か出る時みたいな感じ。しかし工事現場は無い。

何かと思ったら、斎場の出入り口だった。なるほど、と思ったあたりで霊柩車とそれに続いてバスも発進していった。

程なくして誘導員がペコッとお辞儀をしながら足早に車道から去っていき、車は流れ出した。

霊柩車今昔

霊柩車って、最近は目立たない車種が増えたような気がする。

昔の霊柩車は派手な金色の鯱の装飾や白木の彫り物があったり綺麗な漆塗りだったり、いわゆる"宮型霊柩車"が主流だった。
出棺時に長めのクラクションのようなホーン*1を鳴らし、街を走っていると「あ、霊柩車だ」と一目で分かるデザインである。

 

 

現代ではシンプルで目立たない車種が増えた。
とはいっても特徴があるため、よく見れば霊柩車だと分かる。しかし溶け込んでいる。

これは死に対する忌避感が根底にあると言われる。宗派的に見ても、神道的に見ても、穢れの意識だったり縁起の面でも気にする人は多い。まぁ確かに霊柩車を見かけて「縁起がいい!」ってなる人は居ないけど。

 

それゆえ、昔の「大々的に送り出したい」という感覚から「街を走ったりするときに、周囲にも配慮したい」「あまり目立ちたくない」という感覚に変わっていったように思う。

デザインも目立たないものになっていき、最近ではシルバーや白色の霊柩車も選ばれるらしい。

 

もう一つの理由として、あの派手な霊柩車の造り手がかなり減っているらしい。
制作のコスト面でも技術面でもそうだし、作っていた会社も倒産してしまったりして。

 

また、古くからある火葬場ではなく新たに出来た火葬場の場合、近隣住民から目立つ霊柩車の乗り入れを断られることがあるようで。これもどんどん霊柩車がシンプルで目立たないものに変わっていった要因と言える。

 

街に馴染む霊柩車

というわけで、今回斎場から出てきた霊柩車も最近の主流であろう黒色のセダンタイプだった。

 

流れとして、斎場にてお経を唱えたりと一連の葬儀が終わった後、一行は火葬場へと向かう。

ここで肉体との最後の別れとなるため、この火葬場までの移動も人による差はあれどセンシティブである。

このとき、霊柩車には助手席に喪主が乗ることが多い。つまり亡くなられた方に一番近しい方だ。後部座席にも1~2人程度乗れるため、兄弟なり子供なりの近親者が乗る。

他の親族の方は後ろをついて走るバス型の車、さらに自家用車で向かう人は自家用車で向かったりもする。

 

僕は霊柩車も後続のバスもどちらにも乗ったことがある。
曖昧な記憶だが、昔、祖父母が亡くなった時はバスのようなものだったと思う。
父母が亡くなった時は霊柩車に乗った。人生でそう何回も経験できない貴重な体験である。

 

霊柩車も後ろのバスもそんなに速度を上げて走るモノではないので、僕は車線を変えて先に行くことにした。

幾つめかの信号で、僕の丁度真後ろに先ほどの霊柩車が停まっていた。

バックミラー越しに運転手と喪主と思しき方が見える。喪主の方は60代だろうか、親が亡くなってしまったのかもしれない。

何やら口が動いていたので運転手に喋っていたのかも。運転手の顔が相槌を打つかのようにたまに動く。

印象的だったのは、喪主の方が晴れやかな顔をしていたこと。きっといい送り出しが出来たのだろう、そう思わせるような表情をされていた。

 

故人を送り出す

火葬場へと向かう――この段階では故人はまだびっくりしているはずだ。

「あれ?…自分は死んだのか?」と戸惑っているのかもしれない。心の整理も出来ているとは限らない。

笑顔で送り出すのが正しいのか、厳かに送り出すのが正しいのかは考え方・人・宗派によっても違うし、そこは置いておく。

 

肝要なのは「無事に故人を送り出すこと」である。

恙なく葬儀を終え、送り出す。そういう面でも霊柩車で火葬場へと向かうのは改めて重要な意味合いを持つ。

 

葬儀に限らないが、かつてはそういった重要な意味合いを持つ行列の間に割り込む者がいると、最初からやり直しとなるほど厳格だったと聞く。

大名行列に割り込む農民が切られる時代劇のシーンなんかがあったりするけど、あながち誇張でも無いと僕は思っている。

まぁそれを現代の事情や交通ルールに当てはめることは難しいが、なるべく霊柩車の列に割り込んだりしないようにしたいと僕は思っている。

多分これは割り込みを防ぐための後付けだと思われるが、列に割り込むと一緒に連れていかれると云われたりも。

あまりに割り込まれると、赤信号などで先導する車とはぐれてしまったりして、火葬場へと辿り着くのが遅れてしまったりすることも。そうすると折角の最後の顔を見れるチャンスを逃すことになってしまう可能性もあり、居た堪れない。
ましてや、火葬場への道なんて普通に過ごしていれば分かんないだろうし。

 

先にも書いた通り、この斎場から火葬場までの移動もセンシティブなイベントである。喪主も気が気じゃ無いかもしれない状況の中、もし仮に後ろから煽り運転なんかされたら普段以上に感情的になってしまうかもしれない。

 

日常と非日常

日常のワンシーンの中に入っている非日常。

そういった仕事をしていない限りは、死は非日常と言っていいはず。葬儀は非日常だ。

ただし、生き物である以上、生と死は隣り合わせ。忌避しようが遠ざけようが、変わらずすぐそばに居る。

 

霊柩車だって普通に道を走る。パトカーや救急車のようにサイレンが無いから気付きにくいだけで。

他者に興味のない人はどんどん増えている。しかし「自分さえ良ければいいや」という考えはソーシャルコミュニティに於いて生きづらいだろう。

 

ちょっと道を譲ったり、そういった思いやりがあると、より良いと思う。

街の中を走る霊柩車を見ながら、そんなことを考える等した。

 

*1:クラクションとは別物