見に行くか行かないかは元々迷っていたライブだった。
そんな折に「見に来ないか」と誘われ、その流れで色々な話もした。
夜の予定は元々空いていた。
フリーランスとは気楽なもので、アポイントが無ければあとは締め切りを考慮した自分自身のスケジュールのみ。他の予定も自由に入れられるものの、詰め込み過ぎれば締め切り前に慌てる事となる。
常に夏休み終了1週間前だったりテスト1週間前の気分を味わっている、と想像してもらうと分かりやすいと思う。
上前津ZION。僕自身も出たことがあるハコ。
最近の綺麗なライブハウスとは違って、歴史を感じるちょっと古めのハコだ。
どのバンドも良かった。
…と言いたいところだけど、僕の感性で言うならば別に然して響かないバンドも居た。
"それ"を自分たちがやる意味が明確で無かったり、MCが稚拙だったり、演奏が未熟だったり、あまり何曲も聞くのが好きなジャンルでは無かったり。
まぁそれは今回の主題ではないのでその話は置いておく。
ライブは淡々と進んで行ったように思えた。
そんなに何度も何度も見たことがあるわけじゃない。だからもしかしたら珍しい事じゃないのかもしれないけど、曲を終えた後、彼は口を開いた。
「正直、最初はこのイベントに出演するのを断ろうと思っていた」
それは年に一回、主催イベントを開催する主催者としての思いだった。そのイベントには文字通り命を懸けていて、でも決してそれは器用な方法では無く、泥臭く、非常に人間臭い不器用な手法で。
慣れ合いでは無く、出演者が全力でぶつかり合う。しかもそれによって怪我をするリスクすら厭わない――そんなイベントを主催していたが故の葛藤を感じた。
"看板を背負う意味"を分かっているからこその迷い、躊躇い。
実際、慣れ合いを危惧した旨も話していた。
「自分たちが一番カッコいいと思っている音楽をぶちかます」
そういう場でありたいとの思いを受け取った。
考えてみればそりゃそうで。
自分たちがカッコいいと思っている物をステージから放っているんだからさ。
「次にもカッコいいバンドが出るんで…」という言葉は謙遜でしかない。建前とは言わないけども、それが本音であったとしても自分たちが一番だとは思っているはず。
表現者なんだもん。表現したいものが無いなら降りてくれ。
ただ、そこには様々な表現があって然るべき。
しかしこれは興行である。お金を頂いているショーである。エゴとショービズの狭間でバランスを取りつつ、最低限のハードルを越えて、その中で自由に表現する。
それには自信が無くちゃ困るし、一番だと思っててもそれは自然な事。
それを「もっと、人間臭く出してしまえば良いのに」とは僕も常日頃から思っていた。
別にギスギスする必要もないけど、なんというか傷のなめ合いじゃないけどもただ群れていてもどうしようも無いとは思うのね。それ自体に楽しさが見いだせる場合もあるけども。
ライブは僕の知っている彼らよりも荒々しかった。でも不思議と演奏の粗さは気にならなかった。
反骨が原動力になっているなと感じた。とともに、反骨は彼ら――もしくは彼にとって大事なファクターなんだなとも感じた。
もしかするとこれこそがライブなんじゃないか、って。音源の再現ならCDでいいもんね。
「良かったよ」と僕が言っても、彼は「いやいや、そういうお世辞は良いから。」と首を振る。
確かに僕は他の人のライブを見て滅多に「良い」とは思わない。「あーこういう感じかーなるほどねー」とかが多分一番上の感想の部類。
現にそのバンドを見て僕は「カッコいい!すごい!」と思ったことは今まで一度も無かった。でも、今回は、確かに恰好良かったんだ。
でも結局素直に受け入れてもらえなかったので、改めて「不器用な人だな」と思ったのだった。
そんな不器用さは嫌いじゃない。いや、本当に恰好良かったんだよ。