先日、Draw Daydream During Dawnの楽曲の公開を開始した。
それに伴って、ちょっとした解説の記事でも書いていこうかなと思い立った。良い機会だし。
毎週1曲ずつドロドリ*1の楽曲が公開されていく。それに合わせてこの解説も毎週公開していく予定。
歌詞に対する考察も含もうかと思っているけども、見る立場が違えば違った歌詞に感じるとは思ってる。ドロドリ内ですら歌詞に対する解釈は違う。
なので、歌詞は「そういう捉え方もあるのか」程度で見てもらえると良い。
僕が提示した解釈が全てだと思われてしまうと、逆に景色が狭くなってしまう。それは本意ではない。
楽曲公開についての概要はこちら。
それぞれの解説が長い上にどうしても専門的な部分もあるので、こちらの目次から好みの項目に飛んで読むのが良いかも。
全部読んでくれても良いし、それも嬉しいけど。先に言っておくと、この記事は5000字以上ある。
平行線が誕生するまで――ドロドリの黎明
平行線 / Draw Daydream During Dawn
ドロドリを始めるにあたって、いくつかのエッセンスーー簡単に言えばジャンル、カテゴリー、スタイルを作った。
僕はひとつのバンドやユニットの中の楽曲で「ノンジャンル」を掲げるのは好きじゃない。これはひとつのポリシーでもある。
例えば何か飲食店を新しく始めようと思ったとき、よほどの勝算が無い限りは個人でファミリーレストランは作らないだろう。きっともっと専門的な特化した料理をやるはず。居酒屋を開くにしても的を絞った方が集客に有利なのは明白。
手広く広げると、既に手広く展開している業態の下位互換だと認識されてしまう。それを持ち味にするよりも、何か一ヶ所で抜きん出ていた方が武器や個性にしやすい。
ドロドリに於いては、歌謡曲感だったりノスタルジー…情景と男女の話、人生観なんかを織り交ぜながら紡ぐスタイルにしていこうと決めた。
スタイルを決めるまでに試作は50曲くらいあったし、そのうち20曲近く歌ってもらっている。
ライブの演出にしろ、展開の仕方にしろ、色々と実験的な要素も多く入れた。試してみたかったもの、隙間だと感じたもの、勝算のあるもの――そういうものを実行していった。
そんな中、代表ともいえる楽曲となったのが、この「平行線」という。
制約と個性――「ギターが使えない」じゃない
個性となる要素を入れるとともに、制約も作った。
例えば、作曲するときの制約というか縛りのうちのひとつに「あまりギターに頼らない」というものがある。
歪んだギターを使うとやっぱりどうしてもすぐにロックになってしまう。それにバンドっぽさが出てしまい、実際にギタリストが居るバンドやユニットに劣ってしまう。
ドロドリはヴォーカルとキーボードのみの編成。あとはバックトラックをシンクロさせて再生している――つまり打ち込み、いわゆるシーケンス(同期)だ。
よって、ギターやベースやドラムが居ない部分をメリットとして考える必要がある。実際、フットワークや自由度は上がる。
例えばギタリストが居るバンドならば一曲丸々弾かない楽曲はなかなか無いだろう。ベーシストがいたら、一つの公演中にエレキベース、ウッドベース、シンセベースと持ち替えるのも重労働だ。
ドロドリでは、そのいずれも可能なのだ。
ギタリストが居ないから「ギターが使えない」じゃなく、「ギターを使わない」のだ。
その、普段はギターが居たポジションには分厚いストリングスセクションがいたり、ホーンセクションがいたり。もちろんキーボードで埋めることもある。
そうやって他の楽器を活かすための隙間となる。
デメリットではなく、メリットとして活かす。逆転の発想的なものはとても重視している。
平行線のアレンジ
平行線は当初より"看板"とする予定だった。
よって、一曲でドロドリの要素が分かるような楽曲にしなければいけない。かといって詰め込み過ぎれば不格好なハウルの動く城のようになってしまう。それなりに整えた上で、可能な限り要素をぶち込んでいく――足し引きが重要となるアレンジ作業だった。
全体を通して、新しさと懐かしさを同居させた。メロディや使用楽器に現れる歌謡曲感と、生き生きとしたリズム楽器やテンポ・ビートによる新しさ。
なおかつオシャレ感を纏わせて古臭さは排除。この辺はコードワークによるもの。
この曲は大きく分けて使用楽器・楽曲全体(テンポやビート)・コードワークに分けて見ていこうと思う。
使用楽器について
まずメロディ、ボーカルのラインにも歌謡曲らしさを出した。日本的で馴染みがあるような。新しさを感じすぎない、昭和~平成に昔からあったようなニュアンスのもの。
その次にパッと聞いて目立つのはやはりストリングス。弦楽器の美しい揺らぎが雰囲気を作り上げている。
ストリングスのラインとしてはとてもシンプル。でもそれぞれのフレーズに説得力を持たせた。
ホーンセクションはサックスやトランペットを使用。
Aメロの2拍目や4拍目で短く鳴らすユニゾン、歌謡曲っぽくない?
一番は折り返した後半部分から独立した弦楽器の音(ヴィオラ)が出てくる。短い音を出すホーンに対してヴィオラで長い音を出す事で、飽きないコントラストとなる。
Bメロではストリングスの様々な表情が見れる。スタッカートを効かせてオクターブでユニゾンするフレーズ、弦を揺らがせて盛り上げるようなアレンジをしたり。サビへ向かう緊張感のようなものを作った。
サビへ行くとホーンとストリングスはシンプルに。音の密度はBメロの方が高い。サビの楽器隊は純粋にメロディを引き立たせるための役割に徹している。
実際にライブでも弾いているキーボードのパートはピアノの音を使っている。
あえてちょっと音をダーティに。きらびやか過ぎない音色にして、音量も控えめに。
ピアノロック感を出したくなかったのもある。
楽曲全体について
楽器で出したレトロ感を現代風にするために、ベースとドラムはメリハリ感を出してバンドらしさを目立たせている。
ドラムもベースももっと歌謡曲っぽいフレージングがある。「歌謡曲ならこうプレイするよね」という常套句ももちろんある。しかし、リズム隊まで歌謡曲に寄ってしまうと、現代では退屈で聴きごたえの無いものになってしまう。
そこで、ベースとドラムには生き生きと最近のアレンジャーっぽいフレーズを弾いてもらう事にした。
ドロドリに限らないけども、毎回特にベースとドラムは演奏者をイメージしながらフレーズを作る。「今回はこの人とこの人」って感じでその人に依頼した結果をイメージして作ると捗る。
ベースに関してはかなり自由で、ルートに対して3度からフレーズインしてみたり、1番と2番で進行を変えたり…とかなりアグレッシブである。
ベースが変わるだけでかなり印象が変わる。そういう違いに注目しても面白いかも。
コードワークについて
コードはこまめに切り替わり、かつ特殊な物も多用している。
これによって楽曲の古臭さが消えている。
サビのコードは数パターンあり、
AーーーG#ーーーB7ーーーC#mーーー
F#mーーーG#7ーーーC#m-Caug-Bm-E7-
が基本。
キーはE(C#m)なので、度数で言うとⅣから始まる何の変哲もないパターン。
ⅢにあたるG#も、本来ⅢmとなるところがⅢMとなるのもよくある話。オシャレ系では必須かもしれない。
オシャレ系といえば、何でもかんでも7thを入れる人が居るけども、ある程度間引いた方がいざという時に引き立つ。ここで言うと、6つめのコードのG#に7thを入れる事で、ここの転換が際立つ。
最後の7小節目以降のC#mの降下はクリシェ*2のくずし。
C#mからそのまま半音下ってCaug、その次も半音下るのでBになるが構成音をちょっといじる。本来キー的にはBとなるはずだが、あえてBmとすることで含みを生む。ⅢmをⅢMにするのの逆発想とも言える。
その後、そのままBm⇒E7。Ⅴ⇒Ⅰなので相性が良い事はもちろん。しかしⅤm⇒Ⅰ7とした。
前のBmで本来D#になっている部分をDとしたので、それを受け継いで本来E△7となるところをE7としている。
E△7ならばD#を含むが、E7ならばDとなる。つまり、Bmでのアレンジを引き継いでいる。
この二つのコードの間だけ部分転調しているとも解釈できる。ここだけキーをAだと考えれば、Ⅱm→Ⅴ7。Ⅴ⇒Ⅰだと終わりっぽいアレンジだけど、Ⅱm⇒Ⅴ7はグイっとプッシュして続けていくようなイメージの音の運びになる。
1サビと2サビでは、始まりのAをC#mから始めている。
また、1サビではベース音がA#を通り、実質上A#m7-5となる。
このA#m7-5はパッと見難解だけど、A△7のルート音が半音上がっただけ。言い換えれば、A△7/A#とも書ける。
A#m7-5はルート音以外は同じ音構成だが不安定なコードなので、A△7に戻りたがる。というわけで次のコードはG#じゃなくてA△7に。△7にG#が存在するので、本来のコードだったG#のニュアンスをどことなく含んでいることになる。
あとはCメロはオンコードを多く使って浮遊感を出している。どこか浮ついたような落ち着きの無さ。
なお、僕はこれらのコードを全部耳だけで作る。
理論的に作る音楽ほどつまらない物は無い。ただ、組み立てた音をコードネームにして整合性をチェックすると、今書いたような話になる、ってこと。
クリシェだって自分の好きな曲を聴いて「おお、この響き良いな」って思って実際にコードネームにして発見したりするわけで。そういう音と印象のストックを貯めれば、おのずとコードワークの幅は広がる。
「よし、この曲はクリシェを使おう」みたいに理論からパズルのように作った曲は、個人的にはあまり面白いとは言えない。音楽的じゃない。数学的だ。
僕は常に「この響き、良くない?」みたいな作り方をしたい。それがたまたま結果としてこうなっただけ。
歌詞について
歌詞はそのままではあるけども、いち解釈として書いてみる。
簡単に言えば、二人の間の溝、そして二人の歩く道が"平行線"ということ。
平行線はずっと交わらない。寄り添って同じ方向を目指してはいるものの、相容れていない。
何も不仲を歌っただけの曲では無い。
パッと聞いた感じでは別れた男女とその理由を歌っただけの曲だし、別にその解釈以上をしなくても良い。
大人になると、何でもかんでも意見を衝突させる事が減ってくる。
「自分は自分、相手は相手」みたいな感じで、割り切る。これを「大人になる」と呼ぶ人も多い。
交わる事で言い合いになり揉めるのならば、いっそ交わらずに平行線のままで良いか。みたいな。
しかし、平行線である事は必ずしも良い事なのか。
ある種の無関心であり、「言っても意味が無いし」という諦めでもある。
本気で直そうとしてくれる人は意見をガンガンぶつけてくるし、それこそ大人になるとそういう人は減ってきて貴重な存在となる。
平行線である、という事は最初にもちょっと触れたように「同じ方向には進んでいる」のである。
それが未来なのか価値観なのか考え方なのかは分からないけど、とりあえず並走している。
でも、ある時、例えば「直してあげたい」とか「もっと知りたい」とか――その距離感を変えたくなっちゃったりするわけで。
共感を求めて寄り添ってみたら、どちらかが折れなければいけないかもしれない。何かを選ばなきゃいけなくなるかもしれない。代償が生まれるかもしれない。
それが直接的な理由で離れ始めるかもしれない。いや、もう実は離れ始めていたんだけど、ただそれに気付く事が出来ただけかもしれない。
そもそもの話だけど、本当に平行線だったら最初から交わってない。接点すらなかったはず。つまり関わりすらない。
どこかの国のどこかの人くらいの関係が、真の意味での平行線なはずだ。
よって、どういうきっかけかはさておき一旦交わっているという事になる。一旦交わったからこそ、今が平行線の状態だと気付けるわけで。
例えば、今現在が平行線に見えても、もっと広い視野で離れて見た場合に、遠い未来には重なっている場所や可能性があるのかもしれない。
それを察したとき、いずれ交わるのであれば後々問題が起こるよりも先に、という思いが生まれる事も無くはないだろう。遅かれ早かれ、ってやつ。
そういう交わり方もあるはず。
きっと人によって見え方が違う。
そして、多分それはその人の心を映す。鏡のような歌詞になっていると思う。
自分の心と少し交わってみて、"平行線"を感じてみるのも良いかもしれない。