ねこらぼ( 'ω')

名古屋でこそこそと活動っぽいことをしている橋本ねこのブログ( 'ω')

「許せる」ことと「許せない」こと、「許した」ことと「許さない」こと

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「許」の字がゲシュタルト崩壊しそう。

 

世の中には許せる事と許せない事がある。

理由はあれど、最終的に自分の中で物事を咀嚼した上でジャッジするのは「許せる」か「許せない」かの明確な二択に分かれる。

許せるか許せないかに関しての「どちらでもない」があるとするならば、それは「どうでもいい」にカテゴライズされる類いの――いわゆる「無関心」に当たる。

 

許すにしろ許さないにしろ、対象物が必要となる。自分独りでは成り立たない。

「~に対して」という接頭辞ありきで成り立つ。

 

大人になると許さない事が減った――みたいな話を聞かなくも無いけども、僕はそうも変わらないような気がしてる。

というわけで本日はその辺の雑記です。

 

 

大人になると許さない事が減った=大人は許す事が多い、のか

大人になると寛容になる人が多いのは間違いない。人生の経験のふり幅全体でその対象となるものを考えた時に「なんだそのくらい」って感覚になるパーセンテージが上がるのだ。

つまり、今まで生きてきた中の歴史のうちのどれだけの尺度にあたるかによる。

よって、例え同じ「大好きなプリンを取られた」事件であれど、7歳が経験するのと20歳が経験するのとでは違う。

 

関連して、「〇〇と比べれば全然マシ」のような過去の自分自身の大事件や他人の惨事と比較するような事も増えてくる。これによって許すジャッジを下す場合も多い。

 

もしくは許す許さないのフィールドに上げる事そのものが優先順位が低くなってくることもある。面倒だし、許すか、みたいな。人生の中の動作カテゴリーの中での優先順位が下がってきて面倒になるのである。 人生にはそれ以外にも色々なイベントが起こるので、その一つ一つで労力を使いたくないのだ。

 

「許した」へと変化する

さて、「許した」へと変化する瞬間とは何だろうか。

自分の中で感情がスイッチする瞬間――前述のように、許すと許さないの境界線は明確で、グラデーションのようなものではない。境目があるのだ。

 

もしも、「その境界線はよく分からなくなってしまったけど許しても良いかな」と思っていたとしたら、それは関心が薄くなっただけかもしれない。

本当の意味で許したのではなく、目下の関心ごとでは無くなってしまったのだ。

 

そうでない限りはスイッチがある。つまり明確な理由、きっかけだ。

例えば相手の謝罪。相手が武器を収めたのでこちらも武器を収める。これが「許す」だ。

もしくはこちらから武器を仕舞うのも「許す」ではある。

 

なお、「日本人らしいな」と思う言い回しで「水に流す」というものがある。

それはまるで引き戸のようにスーッと横へスライドしていくかのごとく。

「許す」には「~が~に対して」という意味合いを持つが、水に流すのはその辺の立場をあまり意識させない。

ただし、水に流すには双方の正しい合意が無ければならない。それが伴わない場合は圧力的なものも感じる。

 

 

「許せない」けども「許した」

許さない事はストレスにもなり得る。心のどこかに怒りを秘めたままとなっているわけである。という事はその心のどこかの部分にその思いや出来事がずっと存在し続けているわけだ。

それがどのくらいのストレスになるのか、どのくらいのウェイトを占めるのかは人やその出来事のスケールにもよりけり。それによっては許してしまった方が楽になるときさえもあるだろう。

 

よって、到底許せないような事であれ、示談→和解となる事もある。

仕方が無く受け入れる事もある。ある種泣き寝入り的な側面だってある。損得の物差しで見れば片側が損しかしていないときだってある。

 

 

 

そもそも両者の間には様々な問題や立場、見方、価値観が存在する。よって、それに対して第三者が口をはさむべきではない。助言はまだしも、人の最終的な行動そのものに口を出さない方が良い。

 

なぜなら、第三者はその自分の発言に対して一切責任を取ってくれないからだ。

第三者の発言によって考え方や価値観に大きな変化が現れて他の問題が発生したとしても 、その第三者は責任など取ってくれない。責任はおろか、その決定打となった発言ですら忘れてしまっているときだってある。他人とは往々にしてそんなものである。

 

 

「許せない」ことは「許さない」

「許せない」ことは「許さない」ままでも良いんじゃないかな、と僕は思う。

それは誰かが決める事では無いし、許す事が大人だとも思わない。

「許す事=良い事」の図式は、単純に波風立てる事を良い事としない日本人らしい風潮にしか思えない。 

 

先程の項で「許さないことも心の負担になる」ような話を書いたが、これは許されたいサイドにとっても同様であると考える。つまり、負担を取り除きたいから謝ったりする事もあるだろう、と。

それが真の謝罪なのか、何かしらの魂胆があるのか。何から来る、何に対しての謝罪なのか…等々にもよるのだけど、これは双方感の問題。

ここも第三者が出てきて「これだけ謝ってるんだから…」みたいな解決手法にもっていくのは間違っている。小学生じゃないんだから。

 

 

 

 「許す」か否か

再三になるが、「許す」も「許さない」も本人次第、そして相手次第となる。

他人や外野が口をはさむべきではない。

そして、必ずしも許す事=大人、でも無い。

そうやって均すような思考は、ソツも旨みもない人生を全うする上では大事なのかもしれないが、僕にとってはあまり重要そうではない。

 

波風を立てたくなければ全てを許せば良い。

自分の事を最上位に考えるのならば全てを許さなければ良い。

それよりもケースに合わせた反応をするべきではあるけども。

 

これから先も、きっと同じような分岐点に出くわすと思っている。

しっかりと、確かめながら進もう。