先日、永代供養というものをした。
ようやくちゃんと両親を供養することが出来たのだ。
両親の死
母は約8年前、父は約4年前に亡くなった。
やや早い死だったと思う。母は60歳になったばかり、父は65歳だった。二人とも癌だ。
母
母が亡くなったのは2017年11月。
当時はバンドマンとして活動中で、命日となったその日は実は県外でのライブが入っていた。
しかしライブの前日に、いわゆる"峠"だと説明を受けた。予断を許さない状況で、もう今日にも、という状況だった。
正規メンバーではなく単発のサポートとして演奏する予定だったが、事情をメンバーに説明したところ、快く送り出してくれた。きっと迷惑をかけたことだろう。
僕はオールドスタイルの人間なので、バンドをやっている以上は親の死に目に会えないことは覚悟していた。
が、実際のところ、母を看取ることが出来て良かった。
当日は、なかなか病院に足が向かなかった。
目の当たりにしたくなかったのか、認めたくなかったのか。真相は覚えていないが、僕は背を向けた。
「ピアノを弾かないと」――家の中で急にそう思った。その場で1曲、少し物悲しい旋律のピアノを弾いた。
弾き終わると、なんか不思議とすぐそばに聞き手がいるような気がした。
それならば急がないと、とやっと決心が付き、夕刻、病院へと向かった。
親族は既に到着していた。自分が一番最後に来た。
不思議な感覚だ。どこまで聞こえているのだろう。どこまで見えているのだろう。
もはや体も思い通りに動かせないので、「聞こえたなら手を上げて」みたいな検証も出来ない。
本人はすぐそこにいるのに、既にどこか遠くへ行ってしまったような感覚だった。
「死を迎える瞬間」というものには色々な考え方がある。
僕も自分なりの考えを持ってはいるが、一旦控えておこう。
ただ、別に強要するつもりも無いし、自分が正しいとも思わない。色々な考え方があって然るべきだ。
そして母は"令和"も"コロナ禍"も知ることなく、亡くなった。
母の好きだったゴールデンボンバーは令和の曲を出してたよ。
父
母が亡くなり、色々と身辺整理をしていた矢先、父に癌が見つかった。
しかもどうやら予後*1は良くないらしい。
父は多くは語らなかった。が、母を見てきたため、心づもりも終えたのだろう。
現代医学の見通しの精度は素晴らしい。
ほぼ見立て通り、徐々に体調を崩していき、入院生活が始まった。
コロナ禍とやや被り、面会の制限等もあった。
最期は緩和ケアをしてくれる老人ホームのような居宅にお世話になり、非常に良くしてもらった。
父も母も僕が結婚したことを知らない。
姉は結婚して子供もいたが、僕に関しては多分ずっと独身なんだろうと思っていたことだろう。
引越しに伴い
両親を目一杯驚かせられるほどの量の話が積もり積もるほどの歳月が流れた。
そこで引越しである。
今まで仏壇に安置していたお骨をなんとかせねば、と。
どのみちずっと置いとく訳にもいかないとは思っていたのだけど。
丁度、引越しという節目が出来たので、タイミング的にも今だなと。
両親を縁もゆかりもない土地に連れていっても……ねぇ?
というわけで、候補に挙がったのが永代供養である。
永代供養について
永代供養とは、親族・遺族の代わりに遺骨を供養してくれるサービスである。
お墓・墓石との対比として用いられる表現であり、そういった諸々の面倒も見てくれる。
だいたいは寺院もしくは霊園が執り行う。
永代とは言うが、実際は本当の意味での永遠ではない。ほとんどは33回忌まで。
33回忌が終わると、合祀と言って他の方の遺骨とまとめて埋葬・供養される。
他にも、例えば10年や20年などのもっと短いスパンでリーズナブルに契約できるパターンもある。
永代供養に抵抗感を感じる人の中には、この合祀がネックになる人も多い。
なんか大事にされてない感じを受けてしまうというか。
しかし33回忌=ほぼ32年後と考えたとき、誰がお墓参りに行っているのかを考えると十分手厚いと思われる。
30歳で始めても、もう63歳である。自分の場合はまだ若かったが、もし仮に自分が60歳でこのプランを契約した時、日本人の平均寿命から考えても永代供養終了後の合祀時に自分がこの世に居るかすら怪しい。
永代供養を選ばずにお墓に丁寧に埋葬したとしても、自分たちで手入れをし続けなければいけない。
どちらがより手厚いか、コストはどうか、アクセスは良いか、等々、比較すべき点はたくさんだ。
僕は墓石やお墓に全く拘りが無いため、永代供養のサービスのパンフレットを色々取り寄せて「良いじゃん」と思った。
また、だいたい霊園はアクセスが悪い。街中にドンとあるわけじゃないし、やや郊外~辺境の地に弔う事になる。
アクセスが悪く手入れをこまめにせねばならないお墓よりも、アクセスも良く朝晩お坊さんが念仏を唱えてくれる永代供養はメリットしかなかった。
契約
というわけで契約した。
数十万円~百数万円、という相場感だ。
立地、内容、供養される区画や豪華さ等により、これまたピンキリ。
高額でまとまった金額は必要だが、墓石を立てるなりすればどのみちまとまった額は必要である。
お骨を持っていき、預かってもらう。
全部は入りきらないので、粉砕し、一部は合祀される。
人によって、あるいは地域によってここに抵抗のある人もいるかもしれない。
僕の地域ではそもそも骨壺に全てのお骨が入っているわけではないので、別に気にしなかった。
ご立派な俗名・戒名入りの位牌を作っていただいた。
黒に金文字が良い。
その後、引越し
諸々の契約を経て、両親は永代供養が完了し、僕は引越しをした。
まだ引越してから一度もお参りに行けていない。月に一回は行きたいんだけどね。「名古屋遠いなぁ」とか思って後回しになっちゃう。
これがお墓だったらもっと大変だった。荒れ果ててしまう。
その点でもお坊さんが念仏を唱えてくれているのは良い。ほったらかしにはなっていないという。
お墓について
今後どんどん人口が減っていき、人口比率の高い高齢者がどんどん亡くなっていくだろう。
そうなるとお墓もそれだけ必要になるが、手入れ・管理する人もどんどん減っていき負担も増える。
永代供養は現代~近未来のニーズにマッチしていると言える。
最近は「墓じまい」なんて言葉もあり、実物のお墓から永代供養に切り替える場合もあるとか。
確かに2世代以上に渡ってお墓を引き継ぐと大変である。僕も鹿児島にある祖父母のお墓はもはやノータッチである。
更に10年後、20年後にそのお墓がどうなっているのかなんてさっぱり分からない。
また、両親に関しても僕がお墓の面倒を見ている間は良いとして僕がいなくなったら誰がどう面倒を見ていくのかを考えると、33回忌で終了する永代供養はメリットでもあった。
ほったらかしはやっぱり可哀そうだと思ってしまうし罪悪感もある。でもどうしようもない、という面もある。
昔、最初に介護施設というシステムが出来たときは批判もあったと聞く。
「身内で面倒を見るのが当たり前」「他者へ押し付けるようで薄情」とかね。
でも現在だと介護施設はごく自然に選択肢として存在する。永代供養も必要な選択肢として存続し続けると思われる。
*1:医学上、これから辿っていく経過と結末の見通し